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万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

あなたへのおすすめタイトル

自分のAmazonのページに表示されていた、書籍のおすすめタイトルTOP5

 

「老いの福袋」 樋口恵子

堕落論」 坂口安吾

バカの壁」 養老孟司

「イワンの馬鹿」 トルストイ

「変身」 フランツカフカ

 

なにかこう、自分という人間の何かを言い当てられているような気がするが・・

その後はタイムリーなものやベストセラー1位などの中に「明治大衆史」だの「チベット旅行記」だのが挟まれる。「ひとめでわかるツボ」や「四国お遍路地図」があったかと思うとショーペン・ハウエルやマルクス・アウレリアスなども混じっている。検索履歴だけではないようだが、よくわからない。

最初の「老いの〜」を除いて読んだことはある。

おすすめするとすれば「堕落論

短編なのですぐ読めます。とはいえ内容は骨太なので題名から耽美的なものを期待していると右ストレート喰らって1ラウンドKO負けするかも。

逆にベストセラーの「バカの壁」はやや題名オチと感じた・・・自分は。

 

 

 

 

というわけで、残念ながらAmazonさん、ほとんど読んだほんばかりでした。少なくとも自分は「老いのナントカ」は読まない。

 

まあ、そんなこんなで今の趣味はカラオケアプリである。

おっさんくさい、暗い、ひきこもり、なんと言われても本人いたってご満悦だ。

第一に、大きな声を出して唄うと気持ちいい。ストレス解消になる。

ブログ主の住処はやや猥雑な地域に位置する。繁華街とまでいかないが、前の道には店舗が軒を連ねていて隣がカラオケスナックだ。住環境としては理想的とはいえないかもしれない。ただし自分が部屋で大声出すとなれば好都合である。閑静な住宅街やマンションではそうはいかないから、むしろ恵まれているとさえ思い始めている。家人の手前、和室の引き戸に遮音シートと吸音パネルを貼って簡易防音を施し、思う存分歌っている。

第二に、

背景画像を選べる機能が実に楽しい。唄ってからその曲に合う画像を自分で撮った写真ストックの中から探してスライドショーを楽しむ。

ほとんどの人はネットで画像を入手しているようだが、プロの画像は綺麗に整いすぎていてピンとこない。さして上手くもない写真だが拙い自分の唄にはお似合いだ。わざと自分のバイクが映ったものを入れておくのも「自分」にこだわっているからだ。

もともとツーリング中には頭に音楽が流れてたりするタイプである。

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撮った写真はみなそれなりに旅情と言うのかどこかPoeticな要素を備えていると文字通り自画自賛しているのだが、いかがだろうか。

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これらを見て、「ヤラセ」だの「撮ってるの想像すると笑える」だのと嘲笑する輩もいた。
「詩心」というものを持ち合わせていないとみえる。全員チョキを出した記念写真以外は理解できないのだろう。やれやれだ。まあそういう連中は自分の写真を見なくても別に何も困らず生きていけるだろう。自分もまた、そういう人達と付き合わなくても何も困らず生きていける。お互い快適だ。

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バイクを離れても「詩心」は常に持つようにしている。これは電車で旅行した先での一葉。見ず知らずの女性だが佇まいが良かったので遠くからフレームに納めさせていただいた。

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仕事からの帰り道。別に一眼レフ抱えて北海道に行かねばならんというわけでもない。

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なんてことのない近場の風景でもこちらに「詩心」さえあれば良いと思っている。

空を見上げる気持ち、道端の草花に向ける目があればいい。

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しかし、限られたストックの中からでは歌詞の内容に合ったものを探しきれない時もある。これは近くのJRの踏切で撮ってきた。

先日は桜の歌を歌った。歌詞の内容に合うような都合のいい場所があるかなぁ、と思ってたらそれがあった。

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移転して廃校になった学校の正門の前が堤防に上がる坂道になっていて、そこに大きな桜の木がある。去年までは卒業生や新入生たちがその桜の木の下にたくさん集まっただろう。今はもう誰もいない。今年この桜を見上げたのはたぶん自分一人だ。

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学校はいつか取り壊されるだろう。桜の木も切り倒されるかもしれない。何処にでもある人間の身勝手というやつだ。少なくともそれまでは俺が見にきてやろうと思う。そんな思いでこの画像を背景にした。

今までにない経験だった。実に面白かった。

カラオケで自分の好きな曲を唄う。
頭の中でその曲を流しながら、雰囲気に合う風景を探して歩く、自転車やバイクで走る。「おっ」と思ったら小さなカメラを向ける。

そうして撮った画像でMVを作ってアップロードする。

むろん自己満足だ、もはや自己陶酔か。ま、嗤いたい奴がいれば嗤えばよい。(しかし、ここだけの話だが、評判は悪くない)クリエイティブと言っていいと思う。何より楽しい。

右目の問題でやや終局に差しかかりつつあったバイクやカメラといった今までの趣味が、カラオケのMV探しという新たな軸が絡まることで、さらに複層的に楽しめるようになった。

なんだか心が豊かになった気がする。

そうだ車のグローブボックスに一軍落ちしたミラーレスカメラを入れておこう。なんてウキウキしている自分がいる。

 

カラオケアプリ

ともあれダウンロードしたカラオケアプリを使ってみる。最初は曲検索とキー変更が出来ればいいや、くらいな気持ちだったが試してみるとなかなか高機能である。

 

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小さなスマホ画面で歌詞を見るのは少し目は疲れるが、曲によっては自動スクロールもあるし、音程バーが出て歌いやすい。

さらに自分の唄った歌を録音すれば後で聴ける。これは新鮮だった。

最初は「俺ってこんな声だったのか」と驚く。自分の思ってる自分の声と実際他人が聴いている自分の声は違う。その現実を受け入れられるかどうかが、このアプリの大きな別れ道かもしれない。

そして「俺ってこんなにヘタクソだったのか〜」と凹む。これはまあ、アプリになんら責任はない。

曲によるが、ワンフレーズごとの採点システムが組み込んであり、どこでトチっているのかハズしているのかが一目瞭然だ。それを参考に練習していくうちにどんどん自分の歌が良くなる(当社比)のがわかるし、点数も上がっていく(当社比)。良い得点が出ると嬉しい。まあ、もともと点数が大甘な事は容易に想像がつくが。

再生中の画像も自分の画像から選べてスライドショーっぽいものを作れる、これが面白い。自分が今まで撮りためてきたツーリング先での風景や夕日や雲の写真などを並べてみるとなかなか雰囲気である。

自分の撮った写真を見ながら自分の声の歌を聴くというのは、実に素人臭い取り合わせではある。そこには自分という人間が如実に投影されている。

ここまで無料で出来る。言うことはない。カラオケボックスでもお金はかかる。カラオケスナックのオネエチャンに入れ込んだりしたらさらに大変だ。

アプリでの一人カラオケのメリットは他にもある。まずどんな曲を歌おうが勝手である。場の空気を読んで嫌々「チェリー」なぞを唄う事もない。皆川おさむの「黒猫のタンゴ」だって中島みゆきの「エレーン」だって(その気になれば)歌える。

また人が歌い始めた途端にトイレに立ったりする無礼な女子社員はいない。サザンのモノマネをして大声でガナるオヤジもいない。後者は自分には何物にも代えがたい利点に思える。

逆にデメリットとしては、どんなに上手く歌っても(あるいは下手であっても)「イェ〜イ」と喝采してくれる人がいない事だ。これについてはアップロード、またはオンラインで歌うという手段が用意されてはいる。無論そんな度胸はないブログ主である。

「一人で歌っても意味がない、やはり皆の前で熱唱してこそ・・・」というご隠居のご意見ご高説はごもっとも。意固地になってワシゃ歌わん、というのもご自由だ。

確かに、独りでスマホに向かって唄うのは妙な感じはする。推奨はマイク付きイヤホンだがそれでも絵としては滑稽だ。

個人的にもコタツの足でも何でもいいから何かを握りしめてないと歌ってる気がしない。そのうち安いハンドマイクを買おうと思っている。

そう、カラオケアプリ、気に入ったのです。

喉を使う趣味

"喉を使う趣味"というのは"唄うこと"である。それ以外はウガイくらいしかないだろう。

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楽器の演奏は出来ぬが歌なら少しくらいは唄える。クリエイティブとは言わんまでもアクティブ=能動的でもある。唄うのは楽しい。

唄うと言ってもむろんオペラではない。かっこいい洋楽のブルーズでもない。唄うのはもっぱら70年代のフォークである。ギターはもう指が動かないので弾き語りは無理だ。早い話がカラオケである。

「フフン。カラオケかぁ〜」

と鼻で笑う方はここから先は読まないで結構ですヨ。

「フフン。やはりプラシドよりもパヴァロッティだな」

「フフン。そもブルーノートスケールというものがあってだな」

などとCD聴いてウンチク垂れてるだけのスノッブよりも、スナックのカウンターの端っこで誰も聞いてない「なごり雪」唄ってる酔っ払いの方が自分はよほど親近感がわく(親近感というよりも自分そのものだったりするのだけれど)

ただまあ、このご時世である。

カラオケが可能な場所にはおおむね禁足令が出ている。カラオケとは唾液を盛大に拡散するのと同義だ。テーブルやカウンターには他人のグラスや食べ物が並んでいる。防音のためそうそうドアも開け放てない。業界の方にはいたって気の毒ではあるが仕方ない。 

ところが若い連中が

スマホでカラオケアプリがあるヨー」

などという。カラオケボックスほどの曲数はないが結構楽しめるらしい。ものは試し、その場で早速ダウンロードしてみた。こういう尻軽さは今の世ではむしろ必要だと思っている。

眉をひそめて

「リモートなんぞ人間味がない。やはり肩を叩きあって飲む酒こそがぁー」

なぞと言う人が多い。落語の横丁の御意見番みたいだ。そりゃあまあ各人のご自由だけれど。自分は意固地になって自ら楽しむ間口を狭めるのも勿体無いと思う。簡単にできるものなら、とりあえずやってみて、自分に合わないならやめればいい。

で?どうだったか?

それは次回

 

 

 

 

 

 

なるべく目を使わない趣味-4

ようやく最終回 最後は「意」

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意は脳の知覚のことである。これを第六感や霊感と捉えるとオカルト、スピリチュアルに流れてしまいそうだ。自分はそういう方面にあまり理解があるとは言えない。

知覚をコントロールし、あらゆる煩悩を滅殺し、ストレスを溜めない生活を送ることが出来れば、確かにアホな趣味などに時間や経済を費やすこともなかろう。「悟りを開く」とはそういうことかもしれぬ。但しそれには余程の精神修養が必要となるのは自明である。ちょくらちょいと出来るものではない。

「意」を知的活動と捉えれば、「考える」趣味になる。将棋、囲碁などなど、か。ただし勝敗があるものはどうも苦手なのはスポーツで述べた通り。闘争心がからっきし欠如しているのだ。

敵の大将を追い立てつつ、その退路にあらかじめ長槍を仕掛けておく、など平和主義な自分にはどうしても出来ない。チェスには一方が完全に動けなくなると引き分けになってしまう、という面白いルールがある。相手に自由に動ける権利を残しておくのがフェアプレイの精神、ということだろうか。一時期そればかり狙っていた。無論全敗だ。

マージャンなどギャンブルはどうも運次第という気がする。その運の要素を自らの知略で何とかするのがマニアなのだそうだ。しかし出場する馬の血統を調べ上げてそのレースの1-2着を当てる、など錬金術師なみの壮大迂遠さには自分は尻込みしてしまう。投資に対しても基本的には同じ距離感だ。そもそも金銭欲と射倖心直撃なので趣味としては対象外だ。

そのほかで頭を使う、となると思索に耽るということになるだろうか。体系的な思想をまとめ上げ、それを文章にする、というのはやりがいはありそうだ。

しかしいくら考えても肝心の「体系的な思想」が一向に浮かんでこない。「馬鹿の考え休むに似たり」という金言を思い出すばかりである。精神修養には良いかも知れんがこれでは抽象的でちっとも面白くない。

そこで便法として具体的な対象物を拵え、その行為の過程で何らかの精神性を涵養するならわかりやすい。それはすなわち「華道」や「茶道」などの日本古来の芸道ではないか、と気づいた。

花を活ける、茶を淹れる、などそれ自体は本来は大した作業ではない。そこに徹底した美学と精神性を重ね合わせて初めて「華道」あるいは「茶道」たりうる。その開祖が求めた基本理念は素晴らしいとは思う。ただその後に続く弟子や子孫やらのいささか高潔ならざるが権益づくなものを前面に出し過ぎて・・とは前回書いた通りである。

娯楽、道楽、研究、修行

・・・とまあ4回にわたり目をなるべく使わない趣味について駄文をツラツラ書き連ねてきたが、結局コレという趣味には行き当たらないまま最終回を迎えてしまった。そもそもアマノジャクなブログ主の性格が宜しくないのだろう。PC画面でこんな何の役にも立たぬ駄文をブログに書くこと自体、目を酷使するものである、というのが今回得た収穫である・・・ナンジャソラ・・・

 

なるべく目を使わない趣味-3

耳鼻舌ときて次は「身」である。身体を使う趣味といえば・・・

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それはもうスポーツだ。日に焼けた笑顔に白く光る歯で「休日はスカッシュですネ」などと言えればさぞスカッとしゅるするだろう。

あいにく自分の運動神経はカタツムリ並みらしい。おまけに闘争心はミミズ程度ときている。小さい頃からそうやって随分と馬鹿にされてきた。なので「スポーツ」というものをやって喜びを見出せた経験はいまだかって皆無である。
「運動神経不用、闘争心不問、誰にでも出来る簡単なスポーツです」というのにはなかなかお目にかからない。

「ゴルフやれゴルフ」取引先のシャチョーがウチに来るたびそう奨めてくる。
「ほとんど歩いてるだけや、健康にもエエぞう」
「10分に一回くらい止まったボールを打つだっきゃ。誰でも出来るぅ」などと言う。

なるほどそれならサル並の機敏な運動能力は必要ないし、相手のノドブエに食らいついたら離さないハイエナのごとき闘争心がなくともよい。

ただし健康の為といいながら道具一式を他人に運ばせるのが不可解だ。それも自らよりも明らかに体力腕力の劣るだろう中年女性に背負わせるのはナゼか?そもそもあんなに何本もクラブは要らんだろう。大体たまにしか打たないのに一本何万円もす・・・

会話はいつもそこらで途切れる。

ヨガや太極拳はやってみたい気もするが、それは趣味というより健康維持でありメンテナンス作業である。自分の中では庭掃除や毛玉取りに等しい位置付けだ。すれば気持ちはいいが、「こいつァ面白れえや!ウァハハハハ」とはならない。

触覚

さて般若心経における「眼耳舌身意」はいわゆる「五感」のことを指す、という。ならば「身」は身体的活動ではなく「触覚」のことになる。「身体の触覚を楽しむ」という趣味はないかと少し考えた。

すぐにいくつか思いついたが、いささか不適切な話になりそうなのでここでは差し控えておく。

むろんそういうコトが「だいしゅき〜」という向きもあろう。ただし大っぴらに趣味とする事は当節では社会的家庭的に許容されているとは言い難い。度が過ぎて職も家庭も失う・・・などのケースも見聞きする。君子危うきに近寄らずである。

欲望と趣味

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ここに己の「欲望」を満たす活動を「趣味」と混同しない、という法則も導き出されたことに気づいた。

食欲性欲権勢欲を含む要素は慎重に「趣味」から取り除いている。それらにハマるのは「道楽」というより「耽溺」だと自ら戒めている。本能が絡んだ「欲求」には歯止めが効かんのである。どうも我が前頭葉には「理性」が不足しているに違いない。

この上なく助平なくせに美少女エロフィギュアを毛嫌いするブログ主の態度もこの1点で説明がつく。キレイなネーチャンをベンツの横に乗せてのグルメ旅行をSNSで自慢する、などは自分の場合は当然あり得ない。まあしたくても縁もないのだけれど。

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なるべく目を使わない趣味-2

耳に意外と長くかかったので分けました。

なので今回は鼻から。

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鼻から、と言われても鼻(だけ)を使う趣味というのはちょっと思いつかない。鼻は利く方だとは思うが空港で密輸品を嗅ぎ当てるほどの能力はない。ビーグル犬に生まれ変わったらゼヒやりたいと思う職業ではある。タバコはもう止めてから20年もたつ。コーヒーは普段はアメリカンと決めている。

お香を焚いて匂いを愛でる「香道」というものがある、とは知っている。香りを嗅ぐに至るまでに相当込み入った道筋をたどることも大体察しがつく。香道に限らず日本古来の芸道ごとは様式や所作を厳しく律することに精神性を見出すものだ。自分が趣味に求める"個性の自由な発露"を差しはさめる余地など前歯の隙間ほどもないのはわかりきったことだ。

中央集権的な世襲の家元制度に至っては聞くだに震え上がる。根が出鱈目な自分は華道茶道俳句その他同様「お師匠さん」と呼ばれる人種には近づかぬことにしている。その方がお互い幸せだろう。

その点自由なのがアロマなのよ、と言われるが「お風呂にはローズのエッセンスを一滴入れますのワタクシ」という叶姉妹的なものは目のやり場に困る。

舌、といえばグルメだ。これが趣味という人は多かろう。

自分も蕎麦好きなのでバイクで出掛けたらつい蕎麦屋を探したりする。ただし蕎麦屋巡りが趣味とまでは思わない。腹具合によってはホットドッグやカレーライスになることもある。

今まで巡った蕎麦屋も「星をつける」などは一切やってない。自分はタダの蕎麦好きであって蕎麦通ではない。無知蒙昧なくせに己の好き嫌いを押しつけるエゴイストに陥るのだけは回避したい。

そもそも”アクティブ&クリエイティブ”の原則がある。ラーメンだろうが高級会席料理だろうが「食うだけ」ではダメなのだ。

ここで「手料理」なるものが思い浮かぶ。

世の奥方様たちはグウタラな粗大ゴミ兼配偶者どもに誘導したくて手ぐすねを引く方向性だろう。確かにこれならアクティブ&クリエイティブである。

しかし自分といえば魚肉ソーセージとマヨネーズがあったらフォアグラもトリュフもいらない、といった類いだから、まあ趣味としては、はなはだしく向かない。「退屈なので”あやとり”をはじめたい」とアフリカ象が言い出したら誰だって止めるだろう。

「蕎麦を打つ」という趣味がある。

それにハマった親戚がいた。自分で蕎麦の実を栽培して粉を挽いて手打ちする。それだけなら微笑ましいのだが、よせばいいのにお盆に集まった一族郎党にその完全自家製"盛りそば"を振る舞うのである。その蕎麦というのが見た目も食感も味も"細切れの粘土"そのものときている。みな随分閉口した。

「ジャリジャリするう」などと不平を言うと

「蕎麦とは本来こういうもんなんじゃ」と開き直ってウンチクを垂れ出す伯父である。

うちの父親などは三男坊特有の太鼓持ち性分だから

「いや、この方が蕎麦の香りがする。お前らが普段食いよんはウドンのねえさんじゃ」

なぞと要らぬお追蹤を言う。

「ほうじゃ、街の子はゼエタクしよってやけえモヤシなんにゃで」

などと親族一同で変な方角に持っていこうとする。世の中をあんな風にはしたくない。

成果物を他人に披露してヒンシュクを買うのはどんな趣味でも良くある話だ。プラモやヘタ絵なら「あーハイハイ上手上手」と言っておけばいいが、こと「手料理」に関しては「ジャイアンのコンサート」に匹敵するほど凄惨な被害を巻き起こす。各位ご留意めされたい。

 

・・・また長くなってしまった。

「身」と「意」は次回