sig de sig

万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

なるべく目を使わない趣味-4

ようやく最終回 最後は「意」

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意は脳の知覚のことである。これを第六感や霊感と捉えるとオカルト、スピリチュアルに流れてしまいそうだ。自分はそういう方面にあまり理解があるとは言えない。

知覚をコントロールし、あらゆる煩悩を滅殺し、ストレスを溜めない生活を送ることが出来れば、確かにアホな趣味などに時間や経済を費やすこともなかろう。「悟りを開く」とはそういうことかもしれぬ。但しそれには余程の精神修養が必要となるのは自明である。ちょくらちょいと出来るものではない。

「意」を知的活動と捉えれば、「考える」趣味になる。将棋、囲碁などなど、か。ただし勝敗があるものはどうも苦手なのはスポーツで述べた通り。闘争心がからっきし欠如しているのだ。

敵の大将を追い立てつつ、その退路にあらかじめ長槍を仕掛けておく、など平和主義な自分にはどうしても出来ない。チェスには一方が完全に動けなくなると引き分けになってしまう、という面白いルールがある。相手に自由に動ける権利を残しておくのがフェアプレイの精神、ということだろうか。一時期そればかり狙っていた。無論全敗だ。

マージャンなどギャンブルはどうも運次第という気がする。その運の要素を自らの知略で何とかするのがマニアなのだそうだ。しかし出場する馬の血統を調べ上げてそのレースの1-2着を当てる、など錬金術師なみの壮大迂遠さには自分は尻込みしてしまう。投資に対しても基本的には同じ距離感だ。そもそも金銭欲と射倖心直撃なので趣味としては対象外だ。

そのほかで頭を使う、となると思索に耽るということになるだろうか。体系的な思想をまとめ上げ、それを文章にする、というのはやりがいはありそうだ。

しかしいくら考えても肝心の「体系的な思想」が一向に浮かんでこない。「馬鹿の考え休むに似たり」という金言を思い出すばかりである。精神修養には良いかも知れんがこれでは抽象的でちっとも面白くない。

そこで便法として具体的な対象物を拵え、その行為の過程で何らかの精神性を涵養するならわかりやすい。それはすなわち「華道」や「茶道」などの日本古来の芸道ではないか、と気づいた。

花を活ける、茶を淹れる、などそれ自体は本来は大した作業ではない。そこに徹底した美学と精神性を重ね合わせて初めて「華道」あるいは「茶道」たりうる。その開祖が求めた基本理念は素晴らしいとは思う。ただその後に続く弟子や子孫やらのいささか高潔ならざるが権益づくなものを前面に出し過ぎて・・とは前回書いた通りである。

娯楽、道楽、研究、修行

・・・とまあ4回にわたり目をなるべく使わない趣味について駄文をツラツラ書き連ねてきたが、結局コレという趣味には行き当たらないまま最終回を迎えてしまった。そもそもアマノジャクなブログ主の性格が宜しくないのだろう。PC画面でこんな何の役にも立たぬ駄文をブログに書くこと自体、目を酷使するものである、というのが今回得た収穫である・・・ナンジャソラ・・・