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万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

カラオケアプリ

ともあれダウンロードしたカラオケアプリを使ってみる。最初は曲検索とキー変更が出来ればいいや、くらいな気持ちだったが試してみるとなかなか高機能である。

 

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小さなスマホ画面で歌詞を見るのは少し目は疲れるが、曲によっては自動スクロールもあるし、音程バーが出て歌いやすい。

さらに自分の唄った歌を録音すれば後で聴ける。これは新鮮だった。

最初は「俺ってこんな声だったのか」と驚く。自分の思ってる自分の声と実際他人が聴いている自分の声は違う。その現実を受け入れられるかどうかが、このアプリの大きな別れ道かもしれない。

そして「俺ってこんなにヘタクソだったのか〜」と凹む。これはまあ、アプリになんら責任はない。

曲によるが、ワンフレーズごとの採点システムが組み込んであり、どこでトチっているのかハズしているのかが一目瞭然だ。それを参考に練習していくうちにどんどん自分の歌が良くなる(当社比)のがわかるし、点数も上がっていく(当社比)。良い得点が出ると嬉しい。まあ、もともと点数が大甘な事は容易に想像がつくが。

再生中の画像も自分の画像から選べてスライドショーっぽいものを作れる、これが面白い。自分が今まで撮りためてきたツーリング先での風景や夕日や雲の写真などを並べてみるとなかなか雰囲気である。

自分の撮った写真を見ながら自分の声の歌を聴くというのは、実に素人臭い取り合わせではある。そこには自分という人間が如実に投影されている。

ここまで無料で出来る。言うことはない。カラオケボックスでもお金はかかる。カラオケスナックのオネエチャンに入れ込んだりしたらさらに大変だ。

アプリでの一人カラオケのメリットは他にもある。まずどんな曲を歌おうが勝手である。場の空気を読んで嫌々「チェリー」なぞを唄う事もない。皆川おさむの「黒猫のタンゴ」だって中島みゆきの「エレーン」だって(その気になれば)歌える。

また人が歌い始めた途端にトイレに立ったりする無礼な女子社員はいない。サザンのモノマネをして大声でガナるオヤジもいない。後者は自分には何物にも代えがたい利点に思える。

逆にデメリットとしては、どんなに上手く歌っても(あるいは下手であっても)「イェ〜イ」と喝采してくれる人がいない事だ。これについてはアップロード、またはオンラインで歌うという手段が用意されてはいる。無論そんな度胸はないブログ主である。

「一人で歌っても意味がない、やはり皆の前で熱唱してこそ・・・」というご隠居のご意見ご高説はごもっとも。意固地になってワシゃ歌わん、というのもご自由だ。

確かに、独りでスマホに向かって唄うのは妙な感じはする。推奨はマイク付きイヤホンだがそれでも絵としては滑稽だ。

個人的にもコタツの足でも何でもいいから何かを握りしめてないと歌ってる気がしない。そのうち安いハンドマイクを買おうと思っている。

そう、カラオケアプリ、気に入ったのです。

喉を使う趣味

"喉を使う趣味"というのは"唄うこと"である。それ以外はウガイくらいしかないだろう。

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楽器の演奏は出来ぬが歌なら少しくらいは唄える。クリエイティブとは言わんまでもアクティブ=能動的でもある。唄うのは楽しい。

唄うと言ってもむろんオペラではない。かっこいい洋楽のブルーズでもない。唄うのはもっぱら70年代のフォークである。ギターはもう指が動かないので弾き語りは無理だ。早い話がカラオケである。

「フフン。カラオケかぁ〜」

と鼻で笑う方はここから先は読まないで結構ですヨ。

「フフン。やはりプラシドよりもパヴァロッティだな」

「フフン。そもブルーノートスケールというものがあってだな」

などとCD聴いてウンチク垂れてるだけのスノッブよりも、スナックのカウンターの端っこで誰も聞いてない「なごり雪」唄ってる酔っ払いの方が自分はよほど親近感がわく(親近感というよりも自分そのものだったりするのだけれど)

ただまあ、このご時世である。

カラオケが可能な場所にはおおむね禁足令が出ている。カラオケとは唾液を盛大に拡散するのと同義だ。テーブルやカウンターには他人のグラスや食べ物が並んでいる。防音のためそうそうドアも開け放てない。業界の方にはいたって気の毒ではあるが仕方ない。 

ところが若い連中が

スマホでカラオケアプリがあるヨー」

などという。カラオケボックスほどの曲数はないが結構楽しめるらしい。ものは試し、その場で早速ダウンロードしてみた。こういう尻軽さは今の世ではむしろ必要だと思っている。

眉をひそめて

「リモートなんぞ人間味がない。やはり肩を叩きあって飲む酒こそがぁー」

なぞと言う人が多い。落語の横丁の御意見番みたいだ。そりゃあまあ各人のご自由だけれど。自分は意固地になって自ら楽しむ間口を狭めるのも勿体無いと思う。簡単にできるものなら、とりあえずやってみて、自分に合わないならやめればいい。

で?どうだったか?

それは次回

 

 

 

 

 

 

なるべく目を使わない趣味-4

ようやく最終回 最後は「意」

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意は脳の知覚のことである。これを第六感や霊感と捉えるとオカルト、スピリチュアルに流れてしまいそうだ。自分はそういう方面にあまり理解があるとは言えない。

知覚をコントロールし、あらゆる煩悩を滅殺し、ストレスを溜めない生活を送ることが出来れば、確かにアホな趣味などに時間や経済を費やすこともなかろう。「悟りを開く」とはそういうことかもしれぬ。但しそれには余程の精神修養が必要となるのは自明である。ちょくらちょいと出来るものではない。

「意」を知的活動と捉えれば、「考える」趣味になる。将棋、囲碁などなど、か。ただし勝敗があるものはどうも苦手なのはスポーツで述べた通り。闘争心がからっきし欠如しているのだ。

敵の大将を追い立てつつ、その退路にあらかじめ長槍を仕掛けておく、など平和主義な自分にはどうしても出来ない。チェスには一方が完全に動けなくなると引き分けになってしまう、という面白いルールがある。相手に自由に動ける権利を残しておくのがフェアプレイの精神、ということだろうか。一時期そればかり狙っていた。無論全敗だ。

マージャンなどギャンブルはどうも運次第という気がする。その運の要素を自らの知略で何とかするのがマニアなのだそうだ。しかし出場する馬の血統を調べ上げてそのレースの1-2着を当てる、など錬金術師なみの壮大迂遠さには自分は尻込みしてしまう。投資に対しても基本的には同じ距離感だ。そもそも金銭欲と射倖心直撃なので趣味としては対象外だ。

そのほかで頭を使う、となると思索に耽るということになるだろうか。体系的な思想をまとめ上げ、それを文章にする、というのはやりがいはありそうだ。

しかしいくら考えても肝心の「体系的な思想」が一向に浮かんでこない。「馬鹿の考え休むに似たり」という金言を思い出すばかりである。精神修養には良いかも知れんがこれでは抽象的でちっとも面白くない。

そこで便法として具体的な対象物を拵え、その行為の過程で何らかの精神性を涵養するならわかりやすい。それはすなわち「華道」や「茶道」などの日本古来の芸道ではないか、と気づいた。

花を活ける、茶を淹れる、などそれ自体は本来は大した作業ではない。そこに徹底した美学と精神性を重ね合わせて初めて「華道」あるいは「茶道」たりうる。その開祖が求めた基本理念は素晴らしいとは思う。ただその後に続く弟子や子孫やらのいささか高潔ならざるが権益づくなものを前面に出し過ぎて・・とは前回書いた通りである。

娯楽、道楽、研究、修行

・・・とまあ4回にわたり目をなるべく使わない趣味について駄文をツラツラ書き連ねてきたが、結局コレという趣味には行き当たらないまま最終回を迎えてしまった。そもそもアマノジャクなブログ主の性格が宜しくないのだろう。PC画面でこんな何の役にも立たぬ駄文をブログに書くこと自体、目を酷使するものである、というのが今回得た収穫である・・・ナンジャソラ・・・

 

なるべく目を使わない趣味-3

耳鼻舌ときて次は「身」である。身体を使う趣味といえば・・・

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それはもうスポーツだ。日に焼けた笑顔に白く光る歯で「休日はスカッシュですネ」などと言えればさぞスカッとしゅるするだろう。

あいにく自分の運動神経はカタツムリ並みらしい。おまけに闘争心はミミズ程度ときている。小さい頃からそうやって随分と馬鹿にされてきた。なので「スポーツ」というものをやって喜びを見出せた経験はいまだかって皆無である。
「運動神経不用、闘争心不問、誰にでも出来る簡単なスポーツです」というのにはなかなかお目にかからない。

「ゴルフやれゴルフ」取引先のシャチョーがウチに来るたびそう奨めてくる。
「ほとんど歩いてるだけや、健康にもエエぞう」
「10分に一回くらい止まったボールを打つだっきゃ。誰でも出来るぅ」などと言う。

なるほどそれならサル並の機敏な運動能力は必要ないし、相手のノドブエに食らいついたら離さないハイエナのごとき闘争心がなくともよい。

ただし健康の為といいながら道具一式を他人に運ばせるのが不可解だ。それも自らよりも明らかに体力腕力の劣るだろう中年女性に背負わせるのはナゼか?そもそもあんなに何本もクラブは要らんだろう。大体たまにしか打たないのに一本何万円もす・・・

会話はいつもそこらで途切れる。

ヨガや太極拳はやってみたい気もするが、それは趣味というより健康維持でありメンテナンス作業である。自分の中では庭掃除や毛玉取りに等しい位置付けだ。すれば気持ちはいいが、「こいつァ面白れえや!ウァハハハハ」とはならない。

触覚

さて般若心経における「眼耳舌身意」はいわゆる「五感」のことを指す、という。ならば「身」は身体的活動ではなく「触覚」のことになる。「身体の触覚を楽しむ」という趣味はないかと少し考えた。

すぐにいくつか思いついたが、いささか不適切な話になりそうなのでここでは差し控えておく。

むろんそういうコトが「だいしゅき〜」という向きもあろう。ただし大っぴらに趣味とする事は当節では社会的家庭的に許容されているとは言い難い。度が過ぎて職も家庭も失う・・・などのケースも見聞きする。君子危うきに近寄らずである。

欲望と趣味

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ここに己の「欲望」を満たす活動を「趣味」と混同しない、という法則も導き出されたことに気づいた。

食欲性欲権勢欲を含む要素は慎重に「趣味」から取り除いている。それらにハマるのは「道楽」というより「耽溺」だと自ら戒めている。本能が絡んだ「欲求」には歯止めが効かんのである。どうも我が前頭葉には「理性」が不足しているに違いない。

この上なく助平なくせに美少女エロフィギュアを毛嫌いするブログ主の態度もこの1点で説明がつく。キレイなネーチャンをベンツの横に乗せてのグルメ旅行をSNSで自慢する、などは自分の場合は当然あり得ない。まあしたくても縁もないのだけれど。

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なるべく目を使わない趣味-2

耳に意外と長くかかったので分けました。

なので今回は鼻から。

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鼻から、と言われても鼻(だけ)を使う趣味というのはちょっと思いつかない。鼻は利く方だとは思うが空港で密輸品を嗅ぎ当てるほどの能力はない。ビーグル犬に生まれ変わったらゼヒやりたいと思う職業ではある。タバコはもう止めてから20年もたつ。コーヒーは普段はアメリカンと決めている。

お香を焚いて匂いを愛でる「香道」というものがある、とは知っている。香りを嗅ぐに至るまでに相当込み入った道筋をたどることも大体察しがつく。香道に限らず日本古来の芸道ごとは様式や所作を厳しく律することに精神性を見出すものだ。自分が趣味に求める"個性の自由な発露"を差しはさめる余地など前歯の隙間ほどもないのはわかりきったことだ。

中央集権的な世襲の家元制度に至っては聞くだに震え上がる。根が出鱈目な自分は華道茶道俳句その他同様「お師匠さん」と呼ばれる人種には近づかぬことにしている。その方がお互い幸せだろう。

その点自由なのがアロマなのよ、と言われるが「お風呂にはローズのエッセンスを一滴入れますのワタクシ」という叶姉妹的なものは目のやり場に困る。

舌、といえばグルメだ。これが趣味という人は多かろう。

自分も蕎麦好きなのでバイクで出掛けたらつい蕎麦屋を探したりする。ただし蕎麦屋巡りが趣味とまでは思わない。腹具合によってはホットドッグやカレーライスになることもある。

今まで巡った蕎麦屋も「星をつける」などは一切やってない。自分はタダの蕎麦好きであって蕎麦通ではない。無知蒙昧なくせに己の好き嫌いを押しつけるエゴイストに陥るのだけは回避したい。

そもそも”アクティブ&クリエイティブ”の原則がある。ラーメンだろうが高級会席料理だろうが「食うだけ」ではダメなのだ。

ここで「手料理」なるものが思い浮かぶ。

世の奥方様たちはグウタラな粗大ゴミ兼配偶者どもに誘導したくて手ぐすねを引く方向性だろう。確かにこれならアクティブ&クリエイティブである。

しかし自分といえば魚肉ソーセージとマヨネーズがあったらフォアグラもトリュフもいらない、といった類いだから、まあ趣味としては、はなはだしく向かない。「退屈なので”あやとり”をはじめたい」とアフリカ象が言い出したら誰だって止めるだろう。

「蕎麦を打つ」という趣味がある。

それにハマった親戚がいた。自分で蕎麦の実を栽培して粉を挽いて手打ちする。それだけなら微笑ましいのだが、よせばいいのにお盆に集まった一族郎党にその完全自家製"盛りそば"を振る舞うのである。その蕎麦というのが見た目も食感も味も"細切れの粘土"そのものときている。みな随分閉口した。

「ジャリジャリするう」などと不平を言うと

「蕎麦とは本来こういうもんなんじゃ」と開き直ってウンチクを垂れ出す伯父である。

うちの父親などは三男坊特有の太鼓持ち性分だから

「いや、この方が蕎麦の香りがする。お前らが普段食いよんはウドンのねえさんじゃ」

なぞと要らぬお追蹤を言う。

「ほうじゃ、街の子はゼエタクしよってやけえモヤシなんにゃで」

などと親族一同で変な方角に持っていこうとする。世の中をあんな風にはしたくない。

成果物を他人に披露してヒンシュクを買うのはどんな趣味でも良くある話だ。プラモやヘタ絵なら「あーハイハイ上手上手」と言っておけばいいが、こと「手料理」に関しては「ジャイアンのコンサート」に匹敵するほど凄惨な被害を巻き起こす。各位ご留意めされたい。

 

・・・また長くなってしまった。

「身」と「意」は次回

 

なるべく目を使わない趣味

目の病気を患ってからは「なるべく目を使わない趣味」を模索していると書いた。幸い三回におよんだキョーフの高額眼球注射の効果はありそうだが、この先も眼の酷使を続ければ再発の恐れは十分にある。常軌を逸した細密なプラモ作りなんてのは肺癌患者がハバナシガーをふかすようなもので禁忌もいいところである。

さて眼がダメなら残りを使えばよい。

般若心境にも「眼耳鼻舌身意」とある。

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耳で真っ先に思い浮かぶのが「音楽」である。音楽は大変好きでもはや生活の一部である。じゃあ音楽を聴くのはどうか?いやいやただ聴くだけなら自分にとってはそれは「趣味」とは呼べない。

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ここで自分にとっての「趣味」の定義を明確にしておかねばならない。

自分の「趣味」とはアクティブかつクリエイティブなものでありたい。何らかの発露をもってワタクシという人間の個性をそこに投影したいのである。その成果物を自ら磨き高めていく過程がウヒョウヒョ〜と楽しめるわけだ。

だから受け身一辺倒の例えば音楽を聴くとか本を読むとかは「趣味」ではない。というより自分の場合ライフスタイルレベルである。

物欲は人並み以上にあるが「物を収集すること」それ自体に悦びは感じない。切手も古銭も集めたことはない。カバンも靴も必要に応じて買うだけだ。特定のアーチストのCDをコンプリートするよりはサブスクでたくさんの曲が聴ける方が嬉しい。

(むろん世間一般には音楽鑑賞も読書も切手収集も立派な趣味です。他人がやる分にはなんの文句もありません)

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では例えばビル・エヴァンスのすべてのアルバムを網羅し「60年代におけるジャズシーンにおけるピアノトリオの考察」などを論評したとしたら音楽趣味とは言えまいか、と考えた。

それはしかし「音楽研究」と呼ぶべきではなかろうか。個人の活動としては敬服するが自分はそれを「楽しい」とはあまり思えない。

真摯な態度で研究すればするほど、そこに己の好悪の感情=個性の発揮される余地はなくなるはずだ。かといって「俺の中で5番と言えばフルトベングラーだ。異論は認めぬ」などと言いたい放題になれば好き嫌いを展開するだけのただの自己満足に堕する。

その他に「原音再生」という趣味もありうる。

世間的には「オーディオ趣味」として知られる。自分も以前はやれアンプがどうのスピーカーがどうの随分と凝っていたものだが、最終的にはやはりこれも音楽を聴く「手段」のひとつだ。ある程度満足がいく音が出ればそこで終わる。費用対効果を考えなければ青天井の世界だ。その人の経済状態で趣味の奥行きが決まる、というのはどうもツマラナイ

なによりデジタルテクノロジーの急激な進化は「オーディオ趣味」自体を前世紀の遺物にしつつある気がする。現時点での我が家の最高音質はサブスクHD音源+スマホ+ワイヤレスイヤホンで得られるのだ、嗚呼。

自分が音楽を趣味とするのならそれは「演奏する」ということになる。

ただ残念なことにブログ主が演奏可能な楽器はハーモニカとカスタネットくらいのものである。ギターはFの前に必ず一呼吸必要なのでとても「演奏できる」とは言い難い。実は数年ぶりにギターを引っ張り出してきて弦やブリッジなどを交換してみたが、指が全然動かず、FどころかB7も怪しい。

楽器というものは総じて習得に相応の時間が必要になる。今からやり直すには道が険しすぎるような気がしている。

自分の親友のN大先生は自分で作曲し自分で音源を作成、自分の唄を重ねてCDを毎年製作する。自分など足元にも及ばない。これなど完璧にして至高の音楽趣味といえよう。例えそのCDを誰も聴かなかったとしても、である。毎年送り付けてくるので私は聴きますヨ・・・少なくとも一回は。

長くなったので「鼻」以降は次回

 

 

ラッカー廃止令

歳も歳なので模型関係も断捨離を進めていこうと思っている。目の病気のことを考えると、この先、模型は出来たとしてもハイレベルなものは難しいと思う。(もともとハイレベルではなかろう、という点は一旦置くとして)1/72アクリルガッシュ筆塗りでのお気楽な無臭模型が自分のスタイルとなるはずだ。

無臭模型については色々と試行錯誤中ではあるものの、自分としては模型用具はほぼスイッチ可、とのメドが付いている。塗料は水性、接着剤はリモネン系と瞬間その他、パテは瞬間パテやジェッソなどなど。最大の懸案だった金属系塗料がファレホ・メカカラーの登場でブレイクできたのが大きい。

ここらでラッカー全廃のステップに進むことは可能と判断した。事実ここ2年、模型製作でラッカー系はほぼ使用していない。

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実は我が工房におけるラッカー廃止令の引き金となったのは、数年前にこの地を襲った震度6弱クラスの地震である。

自分の住む建物にはさほど深刻な被害は出なかったが、キッチンでは棚から飛び出した食器が相当数割れた。各部屋を点検に行くと色々なものが落下し床に散乱している。家具の揺れ止め金具などは被害を多少軽減してくれる程度のものだと知った。

模型スペースも同様の惨状でもはや足の踏み場もない。その中にはラッカーの溶剤や塗料も当然含まれていたのである。ガラス瓶が割れたり衝撃でフタが開いたりして中の液体が流れ出す事態には至っていなかった。だが、状況を見ればそれが単に「ラッキーだっただけ」という事はなんぼモデラーの馬鹿頭でも容易に理解できる。

地震と同時に起こった停電はやがて復旧した。この折にどこかでショートの火花が飛んで可燃物に引火、というのが地震火災のパターンである。床に落ちたドライヤーを見て自分は思わず首をすくめた。ラッカー廃止案が頭によぎったのはその時だ。無臭うんぬんよりもむしろ引火性を危惧してのことであった。

そしてとりあえずラッカー系の缶スプレーや溶剤のストック分は全てガレージへ移した。工房の方は念の為に小型の消火器を手の届くところに置いた。(ガレージには時々ガソリンをお漏らしになる伊太利人の作った変な単車があるので元々消火器は常備されている)

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そして今回、ついにラッカー系の全塗料、溶剤、パテ、接着剤などを工房内から一掃、工具箱に詰めガレージへ持っていった。落下による破損を防ぐため床に直置きだ。これらは早急にしかるべき方法で処分していこうと思っている。

ともかくこれで極めて安全無臭となった一畳半工房である。エナメル系や水性用うすめ液などの可燃物も多少残ってはいるが、ラッカー系溶剤の揮発性、引火性は格段の差がある。安心感が違うのだ。

無臭という点も大きい。こころなしか工房に漂う空気が清浄になったような気もする。しょっちゅう作動していた空気清浄機も最近では鳴りを潜めている。いまや最大の悪臭源は工房主自身ではないかという話もある。

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全部で200本ほどあった。

別にラッカー系の塗料はなべてこの世から撲滅せねばならん、などと言うつもりはない。カーモデルやエアブラシ主体だとまだまだラッカー系が主流なのも無理からぬ所だろう。これについては、それぞれがそれぞれで考えていく事である。