自分が育った古い木造家屋の茶の間の水屋に、分厚い「広辞林」が置いてあった。
父親に物事を尋ねると「人に聞くよりコージリン引いてみい」と言われたものだ。
自主性を育む上では大変結構な教育方針ではあるが、
小さな頃の自分は大人を質問責めにするナゼナニ小僧だったから、
手を焼かれたことは想像に難くない。大人としては面倒臭いが第一だったろう。
案外、実は聞かれたことを知らなかった、が本当のところかもしれない。
「広辞林」といえば、思い出が二つある。。。
ある時、風邪か何かで連れて行かれた近所の初老のお医者さんが
「この子は華奢やなあ」
と言った。
「そうですねぇん」
母親もヤレヤレといった風にため息と共に答えた。
ナゼナニ小僧の自分は即座に母を見上げて
「なーなーキャシャって何?」と尋ねた。
今と違って純粋な瞳を持つ子供をイメージして欲しい。
母親は苦笑を浮かべたまま取り合わない。
お医者さんも外っ方を向いている。
自分は家に帰って一人でコージリンを引いた。
「きゃしゃー 華奢 : 弱々しいさま」
確かに自分のことは頑健だとは思わなかったが、
なんとも悲しく情けない思いで字引を閉じた。
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まあそうやってその子は時折コージリンを引っ張り出しては「カイゼルヒゲ」などの項目を面白がって読んでいた。
本が好きなコドモだったので読むものが他にないと退屈だったのだ。
小学校高学年の頃だったと思う。
「広辞林」の最後の語句は何だろう、とふと考えた。
ページをめくってみたらそれは「ん」行の「ーんとす」であった。
「ーんとす」:文語「~しようとしている」の意
続いて用例が記されている。それを読んだ自分は目を見開いた。
用例;「広辞林の修訂、まさに成ら-んとす」
何万語もの修訂を終えたこの辞書の編者が、最後の最後にそう書いて、
満足気な様子でペンを机に置き、軽く伸びをする...そんな姿が目に浮かんだ。
辞典の解釈や例文は常に中立で正確で明解である事が求められる。
遊びや独創で偏ったり不明瞭になったりする事は許されない。
作り手の心意気というか何かしらの人間味を感じさせるものでは本来ない。
「広辞林」の「ーんとす」の用例は見事にそれを両立し得ていたのだ。
「やあキミ、見つけたんだね」
ワイシャツを腕まくりしたメガネの編者がモジャモジャ髪を掻きあげながらそう言ったような気がした。自分も知らずに一人微笑を浮かべていた。
見たこともない編者と2人だけの秘密を持った気がした。
辞典は小説と違って最初から最後まで読み通す人は少ない。
必要に応じて引かれるもので、収容された語句の多くはその辞典の所有者の目に触れずに終わる。
「広辞林」を何万人が買ったか知らないが「ーんとす」の用例を読んだものはその内の一握りだろう。
ところで、
最近では個性的で諧謔味のある語句解釈を持つ国語辞典も少なくないそうだ。
中にはアンブローズ・ビアスばりのものもあるとも聞く。
自分はそういうものは欲っしない。
そこかしこで垂れ流されてもかなわぬのが「洒落」というもの。
刹那に閃き、瞬時に消える、だから良いのだ。