sig de sig

万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

おせち

正月にキラキラの「おせち」のお重を並べられても全く猫に小判である。

これはどこそこ料亭ので何万円もした、と言われるとたまげる。
特に美味いと思うものはまずない。
日本酒のアテにはいいだろうが、その金額はないだろうと思う。
絢爛たる「おせち」を前に金箔を浮かべた酒を酌み交わす。
室町時代か、と思う。

まあそこは大人だから一通り箸を出してみては、
「ホウホウこれは珍味珍味」などと神妙に言ってはいるが、
実は正直、味などあまりわかってやしない。
中学生の次男あたりは「おせちより唐揚げがいい」だろう。
本心では自分は彼の側に立つ。

「おせち」「冷めた和惣菜の詰め合わせ」程度にしか思えない。
いわば「あまりありがたくないご馳走」だ。

「おせち」そのものや、それを好きな人を悪くいうつもりは全くない。
それを日本人だからとばかりに押し付けられるのが、かなわない。
日本人気質なのだろう。
Pardon,ぼかぁロンドン生まれのパリ育ちだからNo thank youだね(大嘘)

「おせち」料理というのは多分「節会(せちえ)」あたりからきているのだろうか。
そもそもはお餅も同様と正月に煮炊きしないでいい様に考えられた保存食だったと
思われる。

年末に餅をついておき、お煮しめも準備しておく。
なぜなら正月には農家も漁師も市場もお休みをする。
役人も商売人も家庭の主婦もみな等しく休む。

誰も働かない、殺生もしない。
老若男女、士農工商犬キジ猿の区別なく、お祝いはみんなでする。
まことに日本という国特有の「平等」の形が現れているのが「おせち」なのである、
と自分などは勝手にそう思っている。

細やかな飾りつけで季節の食材を取り合わせる。
「福」だの「寿」だの縁起に絡め、伝統的儀礼的な役割を持たせた。
これも「言の葉」茂れる日の本らしいところだ。

やがて、この国も家族のあり方が変容し都会では正月に親戚が一同に会する事も少なくなる。それに伴いおせちは家で作るものから買うものに変化してきた。
昭和バブル期に何十万だとかの絢爛豪華高級オセチなぞがデパ地下に登場してから何だかおかしくなってきた様に思う。

あの頃から日本文化から「奥床しさ」というものが抜け落ちた気がする。
オセチは本来の意義から乖離の一途を辿りつつあるようだ。
その後、経済が縮小したが、食においては二極分化し、贅沢さは
むしろ先鋭化しているのではないだろうか。

日本の食文化の伝統を守らねば!という意見もあろう。
それなら七草粥も同様の筈だ。

七草だって立派な日本人の心である。
セリナズナが伊勢海老に「日本の心」で劣るのか。
八百万の神はそんなこと言いはしないだろう。

一流料亭がプロデュースしたとびきり美味い七草粥などがあっても良さそうなものだが、寡聞にして聞いたことがない。誰かやってみないか?誰もやらないだろうな。

結局は「値札」だ。伊勢海老なら金は取れるが七草粥じゃ金は取れない。
つまりはそういうことじゃないのか。めでたいものが入ってるのじゃなくて、鴨の燻製だとか、ローストビーフだとか高価なものが入ってるだけじゃないのか。

「日本の心」の軽重を値札で決めている、
そんな不埒な精神がぎゅうぎゅう詰め込まれているのがデパ地下の絢爛豪華高級オセチに他ならない。

そんなら猫に小判でたくさんだ。
小判はいらぬ、カツオブシをくれ、メザシをくれ。