sig de sig

万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

硯と猪口

両親に付き添って「いとこ」のうちに「形見分け」にいったのは
今年の正月早々、
なのでおめでたいんだかなんだかよくわからない。

 

 




  


亡くなったのは自分の伯父と伯母にあたる。
ほぼ3年の間に「相次いで」ならいたたまれないが、
「後を追う様に」と言えば、そこになんだかほのかな情がさす。

今は誰も住まなくなった団地の一室に行ってみると、
あっちからこっちから持ち主を失った品々がぞろぞろ出てくる。

自分の記憶にある伯父の家は、今のその団地と違って庭のある狭い平家だ。
自分は5つくらいの頃、電車で一時間ばかり離れたこの伯父の家に、
何かの事情でひと月ほど一人で預けられていた。

悲しい、寂しい、家が恋しい、といった湿っぽい思い出はあまりない
わたしより二つほど年かさの「いとこ」は兄貴の様に接してくれたし、
伯父も伯母も親身になって面倒をみてくれたのだろう、とても楽しい
毎日だった記憶がある。

幼く、他愛無くもあったからだろうが、本人は覚えていなくても
こうして慈愛というものはしっかり注がれている
自分が子育てしてみて初めてしんなりと気づく事の一つでもある。

以来、自分はその一家からは妙に可愛がられてきた。
自分の両親は、古い写真を眺めて、そんな思い出話にふけっている。
片付けは一向に進まない。

骨董好きの父親たちは茶碗や掛け軸などをあれこれ鑑定している。
どれもこれも捨てるには忍びないのであろうが、
持って帰る踏ん切りもまた、つかないでいるのだ。

桐の箱に入ったぐい呑みの一式があった。










そういえば伯父は大層酒好きな人であった。

自分の父親は下戸であったから、酒を飲んで赤ら顔で上機嫌な
伯父を見て子供心に不思議に思ったものだ。
当方も長じて酒を飲める年頃になると、目を細めて杯を受けてくれたのは、
父親ではなくこの伯父だった。

いま目前にあるぐい呑み一式、
値打ちがあるのかないのか自分にはわからない。
兎に角、それを見ていると伯父達を思い出す
自分は思い切ってそんな薬効があるサカヅキとしてそれを貰いうけた。

似合う徳利がみつからないのでまだそれで酒は飲んでいない。
いつか甥や息子に飲みつぶされる日が来るのかもしれない。

さて、こんどは硯が出て来た。

弁当箱程の大きさで、蓋には竹林と鶴の絵。










その横には何やら漢詩が刻されている。
汚く汚れ、素人目にも作りがあらっぽく映る。

伯父は美術方面にも秀でた人で、賀状にはかならず自筆の俳画
ちょこちょこと描かれていた。
色の具合がとても良いので或る時何色の絵の具かと尋ねると
「あれはね、醤油を薄めて描くんですよ」と教えてくれた。

病を得て、医者に余命いくばくもなしと宣告されてから、
独力で篆刻(てんこく)をやりはじめた。
医者の宣告の方は一向にあたらず、篆刻の印の数は増えていった。
しまいめには全国の篆刻の展示会に県を代表するまでになった。

自分は骨董品の並べられた卓を離れ、本棚の前で品定めを始めた。
きれいに表装された文庫本が並んでいる。
和風の端切れを使った表装も伯父の手によるものだ。
中身は「女優100選」というような普通の映画の本。

頁を繰ると、それぞれの俳優の履歴の最後の方に、
小さな文字のメモが万年筆でこちゃこちゃと書き足されている。
「95年 心不全で没
「88年 離婚

いとこはそれを見て「そういう作業が好きな人でした」と笑った。

本棚の奥の方を尚もさぐる。こうなるとまるで背取師だ。
漢詩の入門本があった。
パラパラめくると付箋のはさんであるページにでくわした。

月落烏啼霜天満

いや、自分には漢籍の学識などない。
しかしなぜだかその句が心のどこかにひっかかった。
ふと、先ほどの硯の蓋と付き合わせてみる。

確かに「月落烏啼霜天満 とある。同じ漢詩だ。

何年も前。
硯の蓋を見て、またも書架の前に立って、この本を抜き出し、
この頁に付箋を挟み込んだ伯父を・・・見つけた。

「ほう。よう気付いたもんにゃ」

頭の上、ひょいと見下ろして伯父が言った気がした。

自分はその硯も貰って帰ることにした。
墨をすって何か書いてやろうと思うのだが、
どうもあくせくして書く事がいまだに見つからない

そのうち伯父の弟のすばしこい三男坊(私の父親のことだ)が
来て持って帰ってしまいそうだ。

漢詩の本はすぐに読み切った。
こちらの方はどんどん興がわいて、
「風呂で読む漢籍」なぞという本を買って来て湯船につかっては
読んで喜んでいる。俗世間との交雑を断って仙境に到ろうとするところが、
今の自分の腑に落ちて面白い。

以前書いて果たせぬ事を何年も掛かってようやく実行に移せた。
無形の形見を受け取ったと思っている。

月落烏啼霜天満 (月落ち、烏鳴いて、霜 天に満つ)
江風魚火愁眠対 (江風、魚火、愁眠に対す)
姑蘇城外寒山寺 (姑蘇、城外の寒山寺)
夜半鐘声客船到 (夜半の鐘声、客船に到る)


「楓橋夜泊」張継