さて、話題をSEIKO 5に戻す。
この先、自分も相方同様、喪主になりそうな案件が控えている、とは以前にも書いた通り。
現在の冠婚葬祭用時計はスイス製の有名ブランド時計である。フォーマルスーツに合う時計は今では自分はこれくらいしか持っていない。(ハミルトンカーキはブラック文字盤なので金属ベルトにすればギリいける、かな?)
むろんそんな高級ブランド品を自分で買うわけもない。ずいぶん昔、80年代にお祝いで貰ったものだ。ブログ主のような仕事生活範囲では使う機会はほぼ皆無だ。貰ったのはゴールドのコンビである。自分の趣味とは180度真逆である。
かと言って人から譲り受けたものをイケシャーシャーと売り払える"お水"感覚もない。シンプルなシルバー単色の中古の不動品を買ってきて中身をいれかえ冠婚葬祭用に特化して使ってきた。
古いものだし例の王冠印の方ではないから脂切った成金的イヤらしさは抜けていると思っている。
しかし「最終、究極」を意味するとかいうそのブランドマークがなんだか疎ましく感じてしまう今日この頃である。
一般論としてもいまや高級車や高級腕時計などはアナクロニストの象徴と思っている。これは前回書いた通り。権威主義やスノビズムによる過剰に重厚長大な豪華さや華美さは自分の最も好まぬところである。ブログ主の生活態度、趣味嗜好で重視するのは実用性、機能性、デザイン性だ。
そういう目で見ればこの瑞西製究極印腕時計、今一つなのである。
実用性は電池切れの恐れが急を要する葬儀専用としてはマイナス点とは何度も書いた通り。機能はクォーツだから問題ないが、中身は汎用ムーブメントで数千円のはずだ。
デザインは悪くはないがその美しさにホレボレする、というわけでもない。たしかに金属ベルトの手触りなどはとても滑らかで艶かしいほどだ。付け心地もきわめて良い。この点は手間がかかった「高品質」な製品だとは思う。しかし、じゃあその手触りだけに何十万も出すのか?と言われたら全速力でかぶりを振るだろう。
いくら仕上げが良くても、やっぱりその価格の大半はブランド代だと思う。
しかしその一方で、高いブランド物を身につけ、世間に対し少しでも自らを大きく見せよう、一目置かれよう、とする自分がいることもまた否定し切れない。そうして自らの身中にそんな醜悪な心がうごめくことがなにより嫌になる。
華やかな結婚式や発表会ならまだしも、葬儀などがお世話になった年かさの人のものであったりすると、自分の虚栄心を雲の上から見透かされている様でなんだか心の平静を欠く。
名だたるものを追って、輝くものを追って、人は氷ばかりつかむ。
このフレーズが今は頭に渦巻いている。
オラァもっとフツーの時計がエエ!
チプカシまでいくとさすがにアレだし、クォーツは急な葬儀の時に電池切れを経験したのは前述の通り。そう、やはり機械式だ。SEIKO 5だ。地上の星はその点でも自分の心をとらえる。
しかしながら、「SEIKO 5なんぞ1本1万やンけ、安っすいもんやぁ、なもんハシからみな買うたンデぇ」などといってぼんぼん買う様な土建屋の地上げ的思考に陥りたくはない。「地上の星」を単に安価だからと十把一絡げに扱うとすれば、自分の最も忌み嫌う権威主義、成金趣味とまったく同じ穴に落ちてしまう。
なにより断捨離、ミニマル化、チープシック中の身である。これ以上むやみやたらと無駄使いするのはいかがなものか・・・