先日着なくなった衣服を整理した。
いわゆる断捨離というやつだ。それなら目が悪くてもできるだろう、と家人からゴミ袋を持たされてクローゼットの前に立った。クローゼットの中は衣服で溢れかえっている。それは何もブログ主がオシャレさんだからではない。単に古い洋服を捨てる勇気がないだけである。
断捨離の達人とやらによると「三年着ないものは二度と着ない、目をつぶって全て処分せよ」とのご託宣である。「中には三年ではなく一年だ!」という猛者もいるが、喪服や防寒着の類は場合によると丸一年着ないこともある。そういう人たちはハムスター並の寿命のなのだろうか。
ともかく、その基準に従って仕分けてみるとかなりの服が処分対象となった。
そのほとんどが別に傷んでもいないしサイズが合わなくなった訳でもない。なぜ着なくなったかというと、ただ単に流行ではなくなったからで衣服としての機能には何ら問題はない。中には2、3度袖を通しただけのものもあってからに、ああもう実にもったいない。
一昔前お気に入りだった革のジャケットを試しに着てみた。
ふた回りほどサイズが大きく感じてしまう。ホントにこんなの着てたのだろうかと目を疑う。今時これを着て外を歩く勇気は自分にはない。
捨てる勇気も着通す勇気もない。どうしようもない私が鏡に写っている。山頭火か。
しかし繊維物はともかく、革なら端切れにすれば小物として再生可能ではなかろうか。シープスキンだから自分の様な初心者の革細工には向かないかもしれないが、裏地くらいには使えるだろう。そう思ってこのジャケットを解体してみた。貧乏性とはこのことである。
洋服を分解するのは初めての経験だ。
解体といってもカッターで切っただけだが、それでも相当骨が折れた。肩にはパッドが縫い付けられているし、必要な場所は裏地に補強が入れられている。ポケットの入り口や襟などもヨレない工夫が様々になされている。一枚の服が形になるには実に多数の手間が掛けられている、ということがよくわかった。部分によって革の種類を変えて使われている。
まさに人知と労力の結集である。このジャケットは確か3万円もしなかったと思うが、こんなの自分で一からやれと言われたら10万円もらっても引き合わぬ。いや幾ら積まれたところで形にすることすら不可能だろう。
衣服を生産した人の労力、それを輸送したり販売したりしたエネルギー、そしてその対価として自分がそれを買った経済力。それら一切合切を「流行・トレンド」とやらが押し流してしまう。「ダサい」のたった一言で。
人間の虚栄心というものは実に罪深いものだ。