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万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

完成品画像 A7M1 "烈風" ファインモールド1/72

*注)約1500文字の記事です。長い文が苦手な方はキャプションや製作後記などを飛ばしてご覧ください。

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”烈風”は1944年5月に初飛行した海軍最後の艦上戦闘機です。同時期に初飛行した機体はグラマンベアキャット、ホーカー・フューリーなどです。

f:id:sigdesig:20201212145307j:plain昭和17年、1942年に海軍から出された要求は640km/hの最大速度と零戦同様の航続距離、旋回性能というものでした。三菱の堀越技師は要求性能を満たすためには、自社で開発中のエンジン"A20”(後のハ43)2,200馬力が必要と主張します。しかし海軍はこの試案を受け入れず、既に実用化の目処がついていた"誉"2,000馬力エンジンの搭載を強要したのです。

f:id:sigdesig:20201212145349j:plainさらに海軍から翼面荷重値の指定、空戦性能最優先などの指示があり設計の自由度が奪われます。雷電の開発に追われていたこともあり、その後も烈風の開発は難航し、二年が経過しました。長期的な視点から理想の戦闘機を追い求める設計側と、早期の戦力化を望む軍部との間に溝が生まれました。

f:id:sigdesig:20201212145510j:plain1944年春、業を煮やした海軍は"試製烈風"の早期完成がなければ開発中止と三菱に迫ります。このころ海軍はすでに有望な次期戦闘機を手にしていたのです。その年の元旦に初飛行し高性能を発揮していた"紫電改"でした。

f:id:sigdesig:20201212145627j:plain1944年5月、ようやく初飛行した"試製烈風"でしたが、速度や上昇力などの性能は零戦にさえ劣るものでした。調査の結果”誉”エンジンの不調が指摘されました。しかしたとえ”誉”が完調であったとしても大柄な"試製烈風"では”紫電改”の性能を上回ることは難しかった、との説が有力です。

f:id:sigdesig:20201212150359j:plain"試製烈風"は海軍から見放され、さらには”雷電”の生産を中止し、全生産力を”紫電改”生産に切り替える方針が出されました。

f:id:sigdesig:20201212145848j:plain大メーカーである三菱にとって屈辱的な決定でした。堀越技師はこれに強く反発します。その頃ようやく実用化された”A20”エンジンを”烈風”に搭載した”A7M2を三菱独自で開発することになりました。

f:id:sigdesig:20201212145943j:plainエンジン換装という大手術を5ヶ月の短期間で終えたA7M2"烈風"は1944年10月に初飛行。当初の海軍の要求に近い性能を発揮し正式採用を勝ち取ります。堀越技師の目論見通りでした。

f:id:sigdesig:20201212145749j:plainしかし試作指示から丸3年の月日が過ぎ去り、この間に時局はまるで様変わりしていました。

f:id:sigdesig:20201212150051j:plain"烈風"を搭載するはずの空母はすでにほとんど残っておらず、日本全土がB29の空襲にさらされる様になります。海軍と堀越技師はじめとする三菱設計陣が心身を砕いて手に入れた"烈風"の優れた航続距離、旋回性能、発着艦性能などは、もはや発揮する場がなくなっていたのです。

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”烈風”は量産第一号機の完成を待たずに8月15日を迎えます。機体も資料もともにすべて廃棄処分とされました。"烈風"の姿は現代に残された数枚の写真でしか見ることはできません。

 

ーーーーーーー製作記事はこちらからーーーーーーーー

 

製作者雑感

まさにこの烈風を作っていた時に、私自身も仕事で「公」的なところからの無茶な要求に頭を悩ませていました。論理的科学的な説明を繰り返すも一顧だにされず、"私の烈風"の青写真は結局実現されることなく終わります。専門的知見による正論は時に為政者からは煙たがられる、というアナクロニズムはいまさらともかく、何より受注側発注側の相互の信頼感が大切であると改めて学びました。

世に出るのが遅すぎた烈風もしかり、海軍が技術者の意見に素直に耳を傾け、三菱側も自社エンジンに拘ることなく真摯に応えていれば、と後知恵で考えるのは青臭い妄想に過ぎるでしょうか。

 

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