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万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

黄昏の絵画たち

「近代絵画に描かれた夕日・夕景」という展示を見てきた。神戸は六甲アイランド、小磯記念美術館。

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小磯良平が神戸の人だったとは。。。不勉強の極みだ。美術館の敷地の真ん中に小磯良平の自宅が移築されていて、内部に再現されたアトリエを見ることができる。なぜだかこういうのを見るのが好きなので、画家の使いこんだパレットや空のイーゼルの前で独り笑みを浮かべてしまう。 

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アトリエ室の北側の大きな窓の配置が絵描きの家らしい。窓枠の薄緑色は小磯の好みだったそうだ。コストと法令に縛られ画一的な現代の家とは違って、住む人の好きなように自由に設計できるのがこの時代の住宅の良い所だ、と変な方面から感心したのは商売柄か。

 
当日、誘われるままに付いて行ったものだから展示物について何の予備知識も持っていなかった。ところがこれが意外に見応えがあったのだ。

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全て小磯の作品だと思っていたがそれは違って(小磯の作品もむろん常設展の形で観ることができたが)コローやクールベ、モネといった西洋の有名どころや黒田清輝などの日本の西洋画、あるいは川瀬巴水、吉田博など近代日本の新版画などが、「夕日・夕景」というモチーフの題材の下で一堂に会している。

観客はまばらで比較的ゆっくりと落ち着いて鑑賞することができたのも幸運だった。どこにでもいる絵の直前に陣取って大声で世間話をするマナーの悪い人たちはやはりどこにでもいる。ワイヤレスイヤホンと小型の単眼鏡は展覧会での自分の必携品だ。

特に自分の好みの川瀬巴水らの新版画の実物は初見であった。川面に映る薄暮の表現、色の深みなど感嘆するほかはない。

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吉田博 「瀬戸内海集 帆船」

 

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川瀬巴水 「木場の夕暮」

ううんと唸ったなり絵の前から動けない。同じ川瀬巴水でもウチの事務所に飾ってあるポスターなどとはやはり全く別物だと思い知った。版画なのだから印刷とたいして変わりあるまいなどとタカをくくっていたが、己れの了見の狭さに恥じ入ったわけである。

 

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モネ 「サン=タドレスの海岸」

夕景、特に旅先、ことにソロのバイクツーリングなどでの夕暮れは無性に心寂しさを掻き立てる。家路を急ぐ子供たちや自転車の学生らの、沈む陽に柔らかく照らされた紅い頬、はしばみ色に輝く瞳とすれ違う。彼らがこれから囲むであろう夕餉の玉ねぎの味噌汁の匂いなどが民家からふと漂ってくる。普段は忘れ果てていた遠い昔の郷愁がもたげてくる。そうして帰るべき家を遠く離れ独り旅をする寂寞が胸に広がるのだ。

 

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和田英作「渡頭の夕暮」

この絵の前で何分立ち尽くしたことか。絵画のモチーフ、題材として「晩帰」という名称があったとはこれまた不勉強で知らなかった。

ふと、自分もまた「人生の黄昏」に差し掛かってきているのかな、と思う。

息子達がそれぞれ一人立ちをする、成人を迎える。今春はその節目である。自分のような駄目な人間の元で良くぞここまで育ってくれたものだ。これから彼らは彼ら自身の人生を歩んでいくのだ。

 

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ルオー 「エクソドゥス」

自分はと振り返れば自らの人生の中で望んでいた何一つも成し遂げる事は出来なかったように思う。社会の組織の枠組みからはことごとく滑り落ちてきた。どこにいようと居場所がない気分がした。それでも構うものかと一匹狼のつもりで働いてきたが、その実、いつも何かにびくびく怯えていて、折々でだれかかれかに取り入ってはその施しで食いつないでいる公園の野良猫の様なものだ。

 

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高橋由一「芝浦夕陽」

それでも、頼もしく育った我が子の姿を見ることが出来るのだから自分などは幸せものだ。子らの成長の大方は彼らの母親のおかげではあるが、自分だって少なくともその礎えくらいにはなっただろう。だから自分の取るに足らない半生も、あながち無意味なものではなかったはずだ、と思い直すことにした。

いずれにせよ我が家の四人家族という「家庭」はもうじき一段落を迎える。大海へ乗り出していく子供たちを見送りながら、やがて自分もこの古船のごとく日没をむかえるのか。それとも身軽になってもう一度帆を張り、漕ぎ出していくことがあるのだろうか。

あまたの「黄昏の絵画たち」を眺めながら、とりとめもなく、そんなことを考えた。