マスキングトラブルと古代デカールの呪いにとらわれ、十手印手描きの憂き目にさいなまれているファルコである。最後の最後の仕上げで小物を取り付けていく。
ピトー管はなんだか変った形状をしている。さらになぜか左右にある。イタリア機の特徴の様だ。せっかくだから無視せず伸ばしランナーで再現する。
いったん取付けた機銃もやっぱり真鍮管で細く作り直した。当初思っていたより全体的に繊細に仕上がったのでバランスが取れていないと感じていた。「まあエエか、でも気になるのう」の繰り返しの末だ。
リューターに真鍮管をくわえ込んで削る。
比べて見るとやはり差がある。
太いと迫力があっていいようなものだが、、、
実機が弱武装で苦労したのを表現できるのはこちらの方か。
こうなったら「まあエエか、いやしかし気になるのう、まあエエか」止まりだったエルロンロッドもやってまお。ギターの1絃を焼き鈍して差し替え。
こんなとこに迫力は要らないわけで、、、
少し細くした。
1/72の模型をふつうに眺める時、目との距離が50cmくらいだとすれば実際は36m先の実機を眺めていることになる。そのスケール感を常に意識している。もちろん何らかの目的をもってオーバースケール気味にすることもある。例えばエルロンロッドなどは「古来ゆかしき構造ですねん」という表現だ。
この距離でエルロンロッドも張線もピトー管も見えている。アンテナ線は見えていない。
最後にタミヤのウエザリングマスターで砂埃汚れ。ボロ隠しの意味も兼ね、下面にたあっぷりとお見舞いする。
レベル1/72のファルコ製作記もここにようやく大団円を迎える。
40年前の自分を「アイツ」としてライバルに想定して作り始めたが、シニカルな「宿敵」というよりは、いつしか工房に取り憑いた座敷わらしがファルコの出来上がる様子を後ろから眺めてくれていたような感じ、と言うのが近い。
ではこの勝負、勝ったのか負けたのか、、、
実のところよくわからない。
それは、見た目だけを比べると今回のファルコが(いくら思っていたほどの完成度には程遠いといっても)40年前の作品に対しては数段まさってはいよう。
ただし40年前の若き日の自分の状況、背景を考えに入れるとしたら、どうだろう。
実は最近、サフェイサー用にでもと思ってクレオスのプロスプレーを手に入れた。随分と改良されてはいるが本質的な原理は40年前と同じで、まあ自動霧吹き機といった感じだ。とても使えたもんじゃない。ダブルアクションエアブラシとの性能差は軽トラとスポーツカー以上ある。こんな五月雨式の霧吹きで「アイツ」はよく迷彩塗装なんかやっつけたものだと思う。
その他の器材も同様、ほかにも、限られた時間、資材、情報、経済力(小遣月3千円)などなど、それらの条件を全く等しくしたもとであれば40年後の今の自分は「アイツ」にとても及ぶものではない。
プラモデルというものはロボットが組み立てている訳ではない。土産物屋の民芸品でもない。どこかの誰かが主体的に組み立てることによって完成するものだ。「オレが作る」がその本質の多くを占める、そんな趣味だ。コレクションするだけならディアゴスティーニのオマケでたくさんだ。
プラモデルには製作過程での「作り手の想い」が詰まっている。それこそが真髄だと思う。「買いました、作りました、出来ました」だけではナイ。自分はそう思う。そう思うからこそこんなクダクダしい駄文をここに書き連ねている。
だからま、完成品だけ見て勝っただの負けただのは野暮な話、ってことだ。
また、今回の製作記の焦点として40年前に比べて「情熱量」を維持できるかどうかをカツ丼からチリメンジャコに到るまでに例えて据えてみた。こうしてみると今の自分には「粘り強さ」あるいは「胆力」といったものは備わっていると思う。それは「純粋さ」と引換えに得たものかもしれないが、40年の人生で培ったものには違いない。
しかし最後の方はもはや涸れきった情熱うんぬんではなく、もっと「冷えびえとしたもの」をもってむしろ淡々と手を動かしてた様な気がする。老境の悟りというのとも少し違う。それが何かは、わからない。
なんとなく昔読んだ「老人と海」を思い出す。
苦闘の末に獲物にしたカジキマグロを、その帰路に無情にも食いちぎっていく鮫と戦う老人サンチャゴの言葉。
「人間は敗ける様には出来ていないんだ」
”Man is not made for defeat. ”
ファルコの下面の国籍マークのヨレヨレを見ながら、そんな想いにとらわれている。
40年後にもう一度コイツを作ることがあるだろうか?
生きてたとしても100歳前だからまずありえない。
だからこれは生涯最後のファルコだ。。。