ここには武蔵小金井駅からバスで行くことになる。
バスが不安ならタクシーで、と思っていたが、
先ほどの吉祥寺で「ダメナビの手下」に懲りたからここは勇気を出してバスを選択。
江戸東京たてもの園はさすがにちゃんとしたサイトがある。
実に懇切丁寧に要所要所を現地の写真で示してあるからちゃんとバス停にたどり着けた。ちゃんとはちゃんとちゃんとを生むのである。
バスが来た。
「運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか 行き先ならどこでもいい」
いやどこでもよくないのだが。
胸ポケットの旅程表でバス停、路線番号、バス停名を何度も確認して小金井公園口西で下車。
小金井公園はとても広く緑に溢れている。東京は意外と緑豊かな土地である。
たてもの園に入るとボランティアの案内員というのがいて、場内図を前に色々と説明をしてくれる。
無論、「前川國男邸」が目的だからそれは言われなくとも見るつもりだが後の二つは正直ノーマークだった。
時間がなくなっても駆け足で見るくらいでたくさんだろうから、まずは「前川國男邸」を思う存分拝見しよう。
ここはまったくモダニズムの合理精神の最たる建築だ。
玄関は北向きでこじんまりとして何の装飾もない。
自分は普段より玄関の大きさはその家の近代的尺度と反比例すると思っていたからこれには快哉した。
リビングの入り口には1間幅のドアがあり、端から1尺ばかりのところに回転軸をもつ。
忍者屋敷などにあるドンデン返し扉と同じ様なものだが、回転軸がオフセンターしているのがミソだ。
軽く開くし、開けるととても広い開口部となる。単純な仕掛けで車椅子に必要な有効開口が取れている。
これはバリアフリーが叫ばれる今でこそ有効な扉だ。
ただしドアの短辺側で子供が指を挟む可能性が0ではない。良い子のメーカーは決してマネしないだろう。
部屋は大きな吹き抜けのリビングにロフトが中心だ。
南側全面の窓には力強い井桁格子、その手前にシンボリックな丸太が柱として配されている。
室外にも丸太柱がありこれは大屋根を支えている。リビング自体は建物から半間奥まったところにあり、
大屋根は結果的に庇となって夏の日差しが室内に入るのを防いでいる。
北側にも大きな窓があり、風が邸全体を爽やかに吹き抜ける。
ロフトは残念ながら現在は立入禁止で上がれない。
梁背は低いのに階段の側板を受ける親柱がないのを不審に思って下からシゲシゲ眺めていると、
「交差したところが切断されているでしょう、これは建築家の遊び心なんです」
と案内人が説明する。
階段の最上段を受ける桁からホゾが出ている。
二階床側の梁との直交部を真下から見ると数mmの隙間ができていて確かに縁が切れている。
遊び心?そんな子供ダマシみたいなことを、この合理主義の建築家がするだろうか。
むしろ親柱を省くためにはここは繋いでおかなくてはならない。
「これちょっとダメっすね」大工の健ちゃんはそう言うだろう。
よく見ると二階床梁のもう一端は室外に張り出している。
そこの荷重をかけているのではないだろうか。
中間点の一階壁を支点にしてテコの原理で階段側を跳ね上げると親柱は不要だ。
だとすれば極めて巧妙かつエレガントな解決法だ。
前川國男ならコッチだろう。
(平成の建築指導課はとても許可してくれそうにないが)
だからこのホゾは後年に切断したものではないか、とにらんだ。
解体移築の折にか、あるいは経年変化で二階床梁の木材がたわんだのを逃す為かもしれない。切断して強度が持たなくなって階段が立入禁止になった、それがおおかたことの真相ではなかろうか、などと邪推してみる。
リビングを中心に西側には書斎が、東側には寝室があり、それぞれ南側に出窓を持つ。
その窓は引き違いではなく片袖に雨戸も内障子も全て引き込まれるからとても開放感がある。
この家の住人は風が吹き込む心地よい暮らしをしていたことだろう。
これも五七五になりそうだ。
、、、、、 、、、、、、、 、、、、、
モダニズムの極致に触れながら、季語だの字数だのに囚われるのも愚だからやめた。
囚われ習うと書いて因習と読む。師匠の添削が当然な俳界が正に、である。
北東側にはこじんまりとした機能的なキッチン。
リビング側と通ずるカウンター付き小窓で配膳の便を図っている。
キッチンと寝室の間には西欧スタイルのバス&サニタリールーム、
床は小口角の黒いタイルで衛生陶器の白とのコントラストが冴える。
浴槽やトイレはTOTOが当時の設計図面からわざわざ一点物で再現したものらしい。
ストイックで均整がとれて美しい。
売り出したら売れるだろう、きっとバカ高い値段がつくのだろうが。
この家はリビングを中心に左右シンメトリックな構造で、廊下は左右に一間づつ。
見事に最小限だ。
常日頃から「廊下の長さと設計者の能力は反比例する」と思っているからこれも唸らざるを得ない。
先日自分の関わった建築に至っては最上階に十字型の意味のないスペースが出現するという有り様で、この100年近い前のモダンな建築物の真反対だ。
(言い訳をすると提案時点ではもう少し合理的だった。後から施主のたっての希望で変更したのでそんな変な廊下ができた。所詮、「建築家」ではなく「建築屋」なのだよ、ボクタチは、ね)
前川邸は現代でも通用する、どころか最近の住宅デザインはこの前川邸の影響を受けること大である。影響を受けながらも及ばぬのが哀しい。
前川邸はまたディティールにも凝っている。
ロフトを支える梁はそのまま「現し」である。
手前の上下方向を先端に向かうにつれわずかに細く削って圧迫感をなくしている。
各室間の建具枠の上部は下側が斜めに削ぎ落とされていて、これも同じ目的だろう。
同じ意匠が階段を支える手すり子の基部にも反復されていて、機能と意匠がリズムを奏でている。
照明器具や家具に至るまで前川のオリジナルデザインだという。
書斎の美しい姿のスタンドライトには一発で参ってしまった。
囲炉裏の自在鉤の機構が組み込んであり、傘の自重と摩擦で固定されている。
リビングの真鍮製のダイニングライトには同じく囲炉裏の滑車が使われている。
和の心を一旦自分の体内に取り入れてからきちんと咀嚼し、デザインとして機能を活かしている。
単に和調のものを再生している町家リノベーションなどとは違うところだ。
極めて理知的、合理的、機能的デザインで無駄な装飾を省き、クリーンでそれでいて温かみを失うことがない。
「形態は機能に従う」
Form follows function
というモダニズムの合言葉を思い起こした。