sig de sig

万年青二才の趣味三昧、走る、作る、観る、聴く、憩う。

雨に打たれる者

風呂屋の番台でもない限り、出先で不意に土砂降りに出くわして足元がずぶ濡れになることなど、誰だって何年かに一度はあるものだ。
それが、ここのところ雨に祟られた記憶がとんとない。。。
 
 

 先日などは雨の一粒もこの身にふりかからない、運のいい日があった。

冗談抜きに上から覗いてるんじゃなかろうかと思うくらいに。。。。
 
「今日は一日中雨、時折強く降るでしょう」との天気予報。
 
窓の外は大雨。
仕事の打ち合わせ時間だからと出かける身支度をする。
傘を手に覚悟を決めてドアを開けたら一滴も降ってなくて拍子が抜けた。
着替えしている間にパタリと止んだらしい。

とりあえず傘だけは手に持ったまま駐車場まで歩いて車に乗り込んで走り出す。
途端にバケツをひっくり返したようなザンザン降りになる。
「これは着いたら大いに濡れるな」
と思いつつ10分ほど車を走らせた目的地では、すっかり雨が上がっている
 
打ち合わせを済ませて車に乗り込み別の仕事先に向かう、
とまたすごい雨がやってくる。
しかし今度は地下パーキングなので濡れる気遣いはない。
 
帰りも運転中はずっとワイパーはフル回転だった。
それが、駐車場に着いた時には小降りになり、
ドアから外に出たらこれまたぴたり、止んでいたのである。

傘をくるくる回して♩Sinigin in the rain♩なんぞと口ずさみながら
ご機嫌で事務所に帰って鍵を回してると背後でざあーっという音がし始める。
振り返ると向こうが霞んで見えるくらいのドシャ降りだ。

なんというタイミングの良さか。
自分は今日は持っていった傘を、ほどく気さえしなかったのだ。
 
日頃の行い?そいつは、どうだか知れたもんではないな。
品行方正でも清廉潔白でもありやしない。
酒にはだらしないし女と見れば鼻の下は伸ばす、ケチでセコいが貯金はない。
ボランティアも献血も素通りしてきた。文字通りのぐうたらオヤジだ。
 
それでも、
雨を避けれた時に、不運を逃れた時に、
 
「本当に上から見ていて守ってくれてるんだ」
 
、、、と心の中で手を合わせる。
 
そんな奴がね、思い当たる奴がね、いるのだよ自分には。

だから俺の人生、
少なくともここまでは、
まんざら捨てたもんではなかった、と信じている。
財も為さず、名も為さず、道端の石ころの様だったとしても。
 
これからもそうありたい、と一念に期している。
雨が降った時にはちょっと今日は運がなかったな、と笑いたい。
晴れた時には、あいつが守ってくれてるんだな、と思える自分でありたい。
 
世の中には逆の人間もいる。

悪口ばかり言ってあざ笑う。
人を見下す。
友や仲間を裏切る。
その場その場のわずかな事柄やくだらない自尊心の為に。。。

そんな日頃の行いをして何ら恥ずることがない。
では、天はひたすらそいつを雨に打たせるのか?
いや、それは違う。
誰にでも等しく雨は降り、誰にでも等しく晴れ間は訪れる。

それぞれがどう受け取るかだ。
晴れた時には、たまたまだ、と斜に構え、
雨が降った時には誰が祟りやがったんだチクショウメと呪う。

不運に遭遇するたびに「ああこれはXXの祟りだ」とか
「今度は〇〇の恨みだ」とか、じくじく思わねばならん。

何か心中に負い目があるから、自戒の念に苛まれる他ないのだ。
死ぬまで悔悟の雨に打たれる。それはどれほどか辛いことだろう。
 
しかし、自覚があるのならまだマシな方で、
ひどいのになると雨に遭うことすら他人のせいにする「自称晴れ男」までいる。
こうなるともうどうしようもない。

それでも周りはちゃんと見ているはずだ。

...あーあ、自分では「晴れ男」なんて言ってるけど、
随分いろんな人の恨みを買ってるのに気づいてない。
むしろ、ありゃあ「土砂降り人生」だなあ。
あんまり近くに寄らないようにしよう...

真の孤独とは、そんな奴の中にこそあるのかもしれない。

 

 __________
 
冒頭、「引きこもりか電話番でもない限り」と書いていたら
引きこもりと電話番を馬鹿にしている、と苦情を頂いた。
なので「風呂屋の番台」と書き換える次第である。
風呂屋の番台に知り合いはいないが、そこからも苦情が来たら「ダルマか漬物石」にする。
ダルマや漬物石は苦情を寄せてこんから安泰だ。
ならばハナっからそう書けば良いようなものだが、そんなものが出歩く道理もないわけで。。。
いずれにせよ、窮屈な世の中である。