つくばいに見立てた大きな庭石に井戸水が竹筒から流れ落ちている。
ふたかかえほどあるその石の窪みから溢れ出た水は、その石の下、
水門としてしつらえてある水の溜まり場に導かれる。
どこから落ちてきたのか胡麻塩模様を背中にまぶしつけたカナブンが
まっ白い陽射しの中、逆さまになってその水面でうごめいている・・・
カナブンは6本の脚を仕切りにばたつかすが、その場でくるくると回るばかりで、
流れがあまりないから岸にたどり着けもしない。
畳四分の一もない水溜めであっても、小さな虫にとってはちょっとした池だ。
自分とOさんはその傍らに立って世間話をしていた。
二人とも視界の端にせわしなく動いている小さな虫がいることを
気付いてはいたが、とりとめもなく話し込んでいる。
ふとそれが途切れた。
見るともなしに二人とも足下に視線を落としている。
「このカナブンはやがて溺れ死ぬだろう」
そんな漠然とした意識を頭の片隅に持ちながら、
その一匹の虫の苦難の様を眺めていた。
と、やおらOさんはしゃがみ込んだ。がっしりとした大きな背中を丸める様にして
たまたま井戸のポンプを修理する為に手に持っていた長いドライバーを
水面のカナブンに差し伸べた。
「オマエは、悪いことばっかりするからな~」
(カナブンは農作物などの葉を食い荒らす害虫)
そう言いながらも、ドライバーの先でカナブンを岸の水草の根元まで引き寄せている。
「ほら、ここまでは助けてやろ。あとは自分の力で何とかしぃ」
カナブンは腹を見せたまま、水草に絡まってまだもがいている。
助かるとも助からんとも知れない生死の淵に独りで捨ておかれている。
自分ならたぶん面倒だからと放ったらかしにする。
害虫なんだから心も傷まない。といって踏みつぶすのも気が引ける。
いや、案外気が咎めてしまって、
すくい上げて気の枝などに戻して「助けてやった」と善人気取りした
かもしれない。
そんな自分よりも確か一回り上のOさんは小学校の先生をしている。
懸命にもがくカナブンのような悪ガキをたくさん見てきたことだろう。
カナブンはやがて水草の葉を這い上がり見えなくなった。
O先生はもう気にも止めていない。
手元のドライバーでもう一方の掌をぱしぱし叩きながら、
やっぱり「暑いねえ、今年は一体どうなってるんかねぇ」
と繰り返している。
九死に一生を得たカナブンはいつの間にかどこかへ飛んで行った。
そうしてまた、先生が丹精込めて手入れした庭の植木や
畑の作物の葉を食い荒らすのだろう。
だれもカナブンごときにそんな不平は言わない。